関東都市学会2021年度秋季大会 逐語録

社会学分野からの報告「都市社会学とソーシャル・ディスタンス」
 (帝京大学 松尾浩一郎)

 帝京大学の松尾と申します。皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。ソーシャル・ディスタンスという概念に注目して、そもそも都市の社会とは何だったのか考えてみようと思っています。「ソーシャル・ディスタンス」ではなくて「フィジカル・ディスタンス」と言うべきだということをよく言われますけれども、やはり「ソーシャル」と捉える意義は大きいと思いますので、そういったことをお話しします。

 では最初に、社会学はコロナ禍をどのように捉えることができるだろうかということを考えてみます。いろいろアプローチがあり得るはずですけれども、差し当たっての一つの道筋として挙げられるのは、感染症を社会病として位置づけるということであろうかと思います。「感染症」と「社会」という言葉を2つ並べてみるならば、いろいろ重なったり結びついたりするのですけれども、この関係を思い切って単純化すると、2つの見方から捉えることができます。1つは、感染症が原因でその影響を受けるものが社会であるという見方。もう一つはその逆で、社会が原因で感染症が結果であるという見方です。もちろん、この2つはあくまでも視点の違いにすぎませんが、研究として見る場合、この2つのプロセスを切り分けることに一定の意味はあると思います。
 特に、社会学の特徴はどこにあるかということを意識してみた場合、後者のほうに着目する枠組みを持っているという点で社会学のユニークさが出てくるとは言えそうです。社会学の観点からいえば、社会というのは、人と人のつながりによって構成されるものです。感染症とは人と人がつながるときに広がるわけです。であるならば、社会の構造が感染症の広がりを生み出す基盤になるということは言えそうです。
 これまで「社会病」という言葉を使ってみましたけれども、英語で言えば「social disease」ということになろうかと思います。「social disease」という言葉は、英和辞典の日本語訳としては「感染症」となっていて、時には性病とか性感染症という訳語も当てられたりしています。この言葉は感染症をソーシャルなものと位置づけているわけですが、なぜソーシャルなものと表現されるのでしょうか。私の解釈としては、社会の中には多種多様な関係性があって、それらの関係性は社会の価値や規範によってその良し悪しが評価されていることが関わっているのではないかと考えています。関係性の社会的価値と感染症の伝播ということを重ね合わせて理解しようとしているのだと思います。
 つまり、感染症が拡大していく原因を、社会にある人と人のつながり全般に等しく帰するのではなくて、社会の中のある特定の悪い部分、悪い関係性に原因を求めようということなのです。ひとたびこのように感染症のソーシャルな性質を認めるならば、ここには社会的介入が可能なはずだという考え方が当然出てくるわけです。例えば、不可欠なよい関係性と、社会にとって不要な悪い関係性とをより分ける。そして、後者を制限するということで感染の拡大を防ごうといった介入です。実際、このコロナ禍において、私たちの社会では関係性の選別が行われてきました。時には、それはプライベートな生活にまで介入してきました。例えば、同居家族であればよいとか、夜の街での接客ではだめとか、事細かに選別されてきたわけです。そうした社会的介入と結びつくものとして「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が世界中で広く使われるようになりました。
 別の考え方として、「ソーシャル」ではなくて「フィジカル・ディスタンス」と言い換えるべきだという意見も広く見られます。しかしこれまでの話の流れからいえば、やはり「ソーシャル・ディスタンス」でもよいのではないかとも思います。というのも、コミュニケーションをとっている者同士がソーシャビリティとしての自然な身体技法の形を曲げて、そこに距離をとりましょう、ディスタンシングをしましょうという面があるわけですから、やはり実質的には「社会に距離を」という意味合いが強いと見ていいのではないでしょうか。

 ここで目を向けてみたいのは、これまでの社会学の伝統の中で、ソーシャル・ディスタンスは様々に論じられてきているということです。そして、それらに改めて注目することで、ウィズコロナ、ポストコロナの都市を考えるためのヒントを得られるのではないかということです。ということで、これから何人かの研究者のソーシャル・ディスタンスについての議論を紹介していくことといたします。
 今、私たちは公共の場ではマスクをつけねばならない状況にあります。「マスクで隠されるもの」と題して面白いことを述べた研究者がいます。その研究者はこう述べます。「日本で維持されている様々なソーシャル・ディスタンスは、そこでは礼儀作法が一つの洗練された技法となるが、平均的なアメリカ人にとって全く理解しがたいものである。」
 アメリカなどでは今、公共の場であってもマスクをする人は随分少なくなっているようです。日本とはかなり違う状況のようですが、それは感染対策云々というよりも、この文章が含んでいるように、それぞれの社会の文化に根差した身体技法の違いという部分が大きいように思います。
 ところで、この研究者は誰なのか、皆さんお分かりでしょうか。シカゴ学派社会学のリーダー、ロバート・パークです。95年前の1926年に書かれた文章です。異なる人種同士の関係などを念頭に置いて、その人種間の社会的距離をマスクのアナロジーを使って論じているものです。ですが、このパークの議論は、今のコロナ禍にある感染症社会を考えるにあたっても、なかなか示唆的なように思います。パークの議論はジンメルの影響を受けているものですが、このソーシャル・ディスタンスの社会学というのはパークの議論に主な源流があると言ってもよいように私は考えています。
 パークによるソーシャル・ディスタンスの議論のポイントは何かというと、それが社会的な儀礼だとしている点にありそうです。これは好井裕明先生が書かれたものから学ばせていただいたことですので、そのまま好井先生の文章を引用します。
 「彼によれば、われわれは、普段、個人間や集団、階級間さらには人種間で様々な距離感を抱いて生活している。この社会的距離を維持するのが、われわれの自己意識であり、人種意識、階級意識である。個人的および人種的な自制を脅かすことなく、行為するために、われわれは、日常、様々な社会的儀礼を開発しており、この儀礼を適切におこなうことが、社会の秩序維持にとって極めて重要な事柄となる」。
 このようにして見てみると、パークの議論は、文化人類学的な考え方があることがよく分かります。距離感という個人の感覚の次元に土台を置きつつも、社会的な儀礼として構造化されていて、人々は儀礼的行為としてディスタンシングを行っているということになろうかと思います。

 パークのこうした議論は、この後、フォロワーたちに大きな影響を及ぼしていきます。これからそうした影響関係のいくつかを追ってみましょう。
 まず挙げるべきは、ソーシャル・ディスタンスの尺度化、スケーリングです。これに取り組んだのは、パークの共同研究者であったエモリー・ボガーダスです。パークとボガーダスの共同研究は、人種の違いによる社会的距離を明らかにしようとするものでした。その中でボガーダスが貢献したのは、社会的距離を社会調査でいかにして測定するのかという、調査方法論の部分でした。
 社会調査という技法、特にサーベイ調査という技法の特性に落とし込んでいくならば、この社会的距離という概念を操作的に定義して、個人単位の次元に置き換えることが必要です。ボガーダスが試みたのは、個人の態度の次元に現れる集団間の親疎として社会的距離を位置づけて、その態度の測定をしようとすることでした。このようにしてボガーダスは、彼の有名な社会的距離尺度をつくったわけです。つまり、スケーリングをしたわけです。1925年に発表された最初のスケールでは、7つの場面において異なる人種の人を許容できるかどうかという態度を問うスケールでした。この尺度は、後にさらに改良されて、より詳しいものになっていきます。
 ボガーダスのスケールの特徴は、まず何より、他者との関係性の中で、その他者に対する好き嫌いの態度として社会的距離を捉えているということにあると思います。そして、単純な○×式ではなくて、距離の程度に目盛りをつけて測定するような構造になっていることも重要だと思います。物理空間上ではなく、社会関係という目に見えない空間において、人と人の間の距離を実体化して捉えることにつながるわけです。
 ひとたびこうした尺度化ができると、社会の中での他者の存在そのものに物差しを当てて、その大きい小さいを評価したり、順序をつけたりできるようになるということにもつながります。そのような意味で、ボガーダスのソーシャル・ディスタンス・スケールは調査技法上だけの問題ではなくて、私たちの社会に対する物の見方にも影響を与える重要な役割を果たしたと思います。
 次に挙げるのは、都市空間の次元でのソーシャル・ディスタンスを捉えようとする展開です。主役はアーネスト・バージェスです。言わずと知れたシカゴ学派都市社会学の重要人物です。バージェスは、人間生態学的なプロセスの中で生じていく地理空間・物理空間と社会的距離との関係について論じています。物理的空間においてセグリゲーションが進むことで、社会的距離、つまりソーシャル・ディスタンスも広がっていくと捉えています。
 物理的空間と社会的距離の間の因果関係、影響関係についてのバージェスの考え方は、一方向的なものではありません。社会的距離から物理的空間へという流れについても、逆に物理的空間から社会的距離へという流れについても、バージェスは議論しようとしています。
 もうひとつ挙げたいのは、ソーシャル・ディスタンスを確保しようとする距離行動、ディスタンシングについての議論です。この問題についての研究ではエドワード・ホールが大きな存在になっています。人と人との近接関係を、一人一人の空間的な縄張り行動の維持という次元で捉えるプロクセミクスという研究を彼はしたわけです。このプロクセミクスという距離行動は、文化とか社会的な関係性によって影響されるというのが彼の議論のポイントです。
 ホールによれば、人々の距離行動は社会的な関係性に応じて4つの層からなる同心円をつくります。1つは、インティメットな関係性にある者同士の距離行動です。インティメットな関係性であれば、物理的には6インチぐらいの距離に位置するのが適切で、それより近くとも遠くとも社会的には不適切だということになります。次はパーソナルな関係性で、1.5フィートから4フィート、そして、ソーシャルな関係性では4フィートから12フィート、パブリックな関係性であれば12フィートから25フィートぐらいが適切だということです。ここで挙げられている距離の数値は、文化や社会が違えば変わってくるわけですけれども、この4つの層からなる社会関係と距離感の秩序そのものは、おおむね普遍的なものだとホールは言っています。
 なかでも注目したいのは、3番目のソーシャルな関係性にあるもの同士の距離、つまりホールの言葉で言うところの「ソーシャル・ディスタンス」です。ホールの議論の文脈でいえば、ソーシャル・ディスタンスとは、インティメットな関係性でもなく、パーソナルな関係性でもない。かといってパブリックというほど薄い関係でもない。そういう関係性のときに、4フィートから12フィートの間隔を私たちは取っているということです。今日、コロナ禍の中で言われるようになったソーシャル・ディスタンスというのは、日本では2メートルぐらいですが、アメリカでは普通6フィートとされているようなので、ちょうどホールのいう「ソーシャル・ディスタンス」に当てはまります。これは単なる偶然ではないように私は思います。

 これまで4人の先人たちのソーシャル・ディスタンスをざっと見てきましたけれども、もし今、彼らが天国から今のコロナ禍にある世界を見下ろして、ソーシャル・ディスタンスについて騒いでいる私たちの状況を見て、何か物申してくるならどうなるのか、想像してみるとおもしろいのではないかと思います。ソーシャル・ディスタンスをとって、社会的なつながりを減らし、感染拡大の防止を目指すというのが、一般的な考え方です。これに対して、彼らはどのように考えるでしょうか。
 まず、バージェスであれば、おそらく地区をまたぐ移動を抑制するのが効果的である、というように主張するように思われますし、ボガーダスであれば、近しい人以外との関わりを抑制しようといった感じになるのではないかと思います。もちろん、あくまで私の想像ですけれども、この2人はおおむね同じような方向性の発言になりそうです。つまり、もともと離れている者同士はそのまま離れたままにしておこう、ということになると思います。
 それに対して、ホールの議論は多分違った方向にいくのではないかと思います。おそらくインティメットやパーソナルな関係性の者同士でも、あえて我慢して距離を広げて、「ソーシャル・ディスタンス」に相当する距離を確保すべきである、となるのではないかでしょうか。つまり、もともと近い存在の者こそ距離を取るように努力をすべきである、となるのではないかと思います。
 もっとおもしろそうなのがパークです。パークの議論はいろいろ錯綜していて要領をつかめないところもあるのですが、私なりにパークの主張しそうなことを想像してみると、多分、こんな感じになるのではないでしょうか。「そもそも都市の社会に距離は要らない。都市という社会に生きる私たちにとって、ディスタンシングは確かに感染症対策としては重要かもしれないけれども、そうであっても距離をむしろ縮めるように努力すべきである、それがあるべき社会の姿だ」という感じになる気がしています。
 これらはもちろん私の思いつきに過ぎないものでしたが、私が読み取ったパークの考え方、つまり、コロナ禍のただなかにある現在のような状況であっても距離を縮めることは社会にとって大事だという考え方も、ひとつの大事な見方になるのではないかと思っています。

 まとめたいと思います。社会にとってソーシャル・ディスタンスとは何かという問いだったわけですけれども、これまで見てきましたように、ソーシャル・ディスタンスとは、様々な捉え方ができる概念だったということがまず言えます。そして、今日のコロナ禍において、差し迫った問題としてソーシャル・ディスタンスが要請されてきたりしましたけれども、都市の社会の在り方を改めて論じる手がかりがここにあるような気がします。後でブレークアウトセッションのときにお話しできればと思いますが、一言でまとめてしまえば、私が問うてみたかったのは、ソーシャル・ディスタンスが社会のソーシャルな側面そのものを壊していくような可能性もあるはずで、そこに注目すべきではないかということです。そのためにも、パークの議論には参考にすべき手がかりがあるのではないかと思っています。そしてさらに、こうした危機を乗り越えて、これからの都市空間において健全な都市社会を育むというか、そういう方向で何か私たちは努力すべきではないかということです。

以上

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《関東都市学会2021年度秋季大会 逐語録一覧》

【開会挨拶】大矢根 淳(関東都市学会会長・専修大学)
報告①解題・経済学分野からの報告「コロナ禍と都市の経済・人流」 米本 清(関東都市学会研究活動委員長・高崎経済大学)
報告②NPO・ボランティア/災害分野からの報告「コロナ禍における市民活動の展開」 菅 磨志保(関西大学)
報告③社会学分野からの報告「都市社会学とソーシャル・ディスタンス」 松尾 浩一郎(帝京大学)
報告④地理学分野からの報告「地理学におけるコロナ禍とポストコロナへの模索 ―都市地理学の視点から―」 戸所 隆(高崎経済大学名誉教授)